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「あおもり歴史トリビア」第577号(令和5年11月10日配信)

「あおもり歴史トリビア」第577号(令和5年11月10日配信)

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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは!室長の工藤です。
先月10月18日に開催した歴史講座は、青森町の寺子屋をテーマにお話をしました。その準備段階で資料を繰っていたところ、寺子屋ではなく弘前藩の子弟教育に関するものですが、つぎのような記録を目にしました。

明治3年(1870)12月末、弘前藩が「東京ニお雇ひ」となった漢学と英学の教師4人が弘前にやってきました。そのうち英学の教師2人が翌年1月早々に青森町に赴任し蓮心寺に入り、ここに「弘前家中ノ子弟」の「学問所」ができるというのです。この記録は青森浜町の豪商滝屋家の当主の養子、伊東彦太郎が記した日記によるものです。
そこで教育史関係の叙述にあたってみると、弘前藩庁は明治4年1月2日に弘前・最勝院に皇漢英3科目を教授する敬応書院を創設し、その後1月15日に敬応書院の「分所」となる青森英学寮(青森英学校とも)を蓮心寺に置いたとありました(『新青森市史』別編1教育(1))。伊東彦太郎の日記の記述は、この青森英学寮に関するものであったといっていいでしょう。

そうするとひとつの疑問が浮かんできます。というのは、当時の青森町には武士がほとんどいません。そこに藩費ですべてをまかなう「弘前家中ノ子弟」の教育機関を置く必要性がどこにあったのか…ということです。弘前には「本校」とでもいうべき敬応書院があるのですからなおさらです。
教育史の叙述においては、内容に少しばらつきはありますが、雇われた教師の間に激しい対立があり、その解決策として一方の当事者を弘前から青森町に移したといいます(『青森県教育史』第1巻記述篇、『弘前市教育史』上巻)。わざわざ遠方から招いた教師を対立が理由で弘前から放してしまうのは、非合理的ではないでしょうか。

 私は明治3年という年代に着目すべきと考えます。というのは、青森町はこの年にそれまでの町人町から政治・行政の町へと脱皮しようとしていたからです。たとえば、藩庁の第三次職制改革でできた部局である民事局は青森町に設置されました。その後、会計局も青森町に置かれます。
さらに、藩主・津軽承昭が8月末から青森町に滞在し蓮心寺で執務を行っているのです。すなわち、藩庁機能をも青森町は担うようになったのです。もっとも、承昭は10月9日に青森町を去り、12月22日をもって蓮心寺への役人の出仕も停止となります。そして、翌年1月に青森英学寮がここに設置されるのです。
青森町に「弘前家中ノ子弟」の教育機関が設置された意義は、こうした社会のドラスティックな変化のなかで捉えられるべきだと思うのです。


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