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ここ十和田でしかみることができない38点の恒久設置作品が展示されている常設展は、草間彌生、ロン・ミュエクなど世界で活躍する33組のアーティストによるコミッションワークにより構成されています。また常設展スペースのほか、文化芸術活動の支援や交流を促進する拠点として、ギャラリースペース、カフェ、市民活動スペースなど、多様な機能を持ちます。
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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
9月は「防災月間」です。藩政時代の青森町では、火災が発生すると大火となるケースがしばしばありました。その原因には火災が発生すると強い西風に見舞われるという自然現象のほか、市街地が東西に長く延びているところに家屋が密集していることなどがあげられる一方、季節性は認められないということです(長谷川成一「巨大災害と民衆」)。
もっとも、こうした条件は近代になってからも変わらず、明治43年(1910)5月3日の大火など火災は多くありました。現在、橋本2丁目の住宅地にそびえる大きな壁は、一説によると(真偽のほどは定かではありませんが)昭和の初めに建てられた防火壁ともいいます。
また、17世紀の中〜後期においては、まず代表的な災害として、明和3年(1766)1月28日(グレゴリオ暦1766年3月8日)の大地震「明和津軽大地震」があげられます。これは冬期間ということもあり、家屋の倒壊率が高かった地域では火災が多く発生したといいます(『新青森市史』通史編第2巻近世)。また、天明の飢饉が起きた天明3年(1783)には、青森町で8月と11月に大きな火災に見舞われています。
そして、地震・飢饉・火災で疲弊した青森町には、紀行家として知られる菅江真澄らが訪れていました。天明5年(1785)8月18日に青森町を訪れた真澄は、安方町のようすを記録し「(町中が)焼けてしまい、仮の小屋だけが立ち並んでいる」(『そとがはまかぜ』意訳)と記しています。
さらに、天明8年の幕府の巡見使一行に加えられた古川古松軒(ふるかわ・こしょうけん)は『東遊雑記』のなかで、いまだ地震や飢饉から立ち直っていない人々の声を聞き取っています。
一方、宝暦8年(1758)に訪れた上方の商人が記したという『津軽見聞記』(引用は意訳)は、津軽地域の「火の用心」(防災)についてつぎのように記しています。まず3月〜9月について、「雪が消えると家の屋根に用水桶を上げ、町中にも用水を貯えます」といい、「奉行所も昼夜なく往来を吟味して不審者を捕らえることもあり、町家でも昼夜火の廻り番を厳重にしています」と、火災には町をあげて気をつけているようすがうかがえます。
また、降雪期となる10月〜翌年2月は「雪が深いのでこれが『用心』となっています。ですから、町廻りもせず、用水も貯えません」とあります。
外来者の目とはいえ、防災の記録は珍しいものではないでしょうか。
ちなみに、明治42年の『青森市沿革誌』では、「津軽明和大地震」を契機として津軽地域で屋根の雪下ろしが始まったと記していますが…真相はいかに。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
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