ワールド>日本>青森
表示形式
表示切替
カテゴリ別に表示
戻る
ここ十和田でしかみることができない38点の恒久設置作品が展示されている常設展は、草間彌生、ロン・ミュエクなど世界で活躍する33組のアーティストによるコミッションワークにより構成されています。また常設展スペースのほか、文化芸術活動の支援や交流を促進する拠点として、ギャラリースペース、カフェ、市民活動スペースなど、多様な機能を持ちます。
■□■□■□■□■□■
〈青森市メールマガジン〉
■□■□■□■□■□■
みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
今回は先週配信のNo.643の続きです。
青森市の歴史叙述では、弘前藩初代藩主津軽為信は外浜に城を築くよう命じた(以下築城命令)…という為信の事蹟が紹介されます。昭和31年(1956)刊『青森市史』第2巻港湾編(上)(以下文献1)、平成元年(1989)刊『青森市の歴史』(以下文献2)では、ちょっとした文章表現は違うものの青森の町づくりの前提としてこのエピソードが取り上げられます。すなわち、「築城」が「町づくり」に変更されたというのです。
では、為信は誰に命じたのでしょうか。
文献2では、為信による信枚(第2代藩主)への「遺命(死ぬときにのこした命令)」と記しています。一方、文献1では、最初に命じた人物として先週紹介した今(金)勘解由左衛門をあげています。その後、為信は最期の時に信枚を枕元に呼び、城を築く場所を変更するよう命じたと記しています。その意味では文献2の遺命と通じるところはあります。
さて、それでは築城命令について記した当時の記録(史料)は存在するのか?…という根本的な問題に話を移しましょう。まず、記録は存在します。文献1は、これと極めて似たもので叙述されたとみています。
またこの記録自体は藩政時代前期(17世紀中頃以降)に、すでにあった記録を書き写したものです。ただ、「すでにあった記録」の内容の信頼性となると、築城命令が青森市以外の自治体史の叙述にほぼないという点から察せられるでしょう。加えて、この記録は当時藩庁に提出されていますが、「津軽一統志」などの公的な歴史編さんの場面でも採用されてはいません。
築城は今勘解由左衛門が命じられ、その時期は天正13年(1585)の為信による油川城攻めからそう離れていない頃だとみられます。そして、重要なのは命じられたのが、信枚ではなく今(金)勘解由左衛門であるという点です。つまり、この話の出所は今(金)勘解由左衛門周辺にあるのではないかと考えられるのです。
一方、信枚にはその後「京都」で伝えられたとあります。これは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の歴史的事実を反映したものですが、すでに15年を経過しています。この記録への疑問はこの点にもみえ、ただ逆にいえば今(金)勘解由左衛門周辺に伝わった話に強引に信枚を登場させ、さらに青森の町づくりに接続させたと考えられます。
したがって、築城命令の実否はともかく、これを青森の町づくりに結びつけるのは、この記録の仕掛けた罠(作為)にはまってしまうことになるのではと思うのです。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
青森市新町一丁目3番7号
TEL:017-732-5271
電子メール: rekishi-shiryo@city.aomori.aomori.jp
青森市メールマガジンをご利用いただき、ありがとうございます。
登録の変更や利用停止の手続は、次の画面からどうぞ。
○青森市ホームページ
http://www.city.aomori.aomori.jp/mailmagazine-riyou.html