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「あおもり歴史トリビア」第593号(令和6年3月15日配信)

「あおもり歴史トリビア」第593号(令和6年3月15日配信)

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〈青森市メールマガジン〉
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みなさん、こんにちは。室長の工藤です。
青森県庁構内に東側に「御仮屋跡」と刻まれた碑があります。御仮屋とは藩政時代、弘前藩主が訪れた時の宿泊施設で、青森のほか鰺ヶ沢や深浦などにも設置されています。鰺ヶ沢と深浦の御仮屋は町奉行所とおなじ敷地のなかにあるのですが、青森の御仮屋は現県庁、町奉行所は現善知鳥神社の東側(のち移転)にあるという相違点があります。この相違は青森の御仮屋の成り立ちに理由があるようです。

青森の御仮屋は寛文11年(1671)に、大道寺宇左衛門の居所として設置されました。当時の名称は青森「屋敷」といい、御仮屋ではありません。設置の背景には寛文9年に蝦夷島で起きた寛文蝦夷蜂起があったとみられ、北方社会(具体的には蝦夷島)を視野に入れた軍事的な役割を担うものであったと位置づけられています。ですから、青森町の行政などを担当する町奉行とは異なる任務を青森屋敷の住人、大道寺宇左衛門は担当したのです。このような、いわば非常時に設置された屋敷ですから、45年ほど前に始まった弘前藩庁の青森町建設プランには組み込まれていなかった施設だったろうと考えています。

かつて、御仮屋は弘前の本城に対する「仮の屋形」であるという理由から、青森の御仮屋は「外ヶ浜鎮守の城」であるという考え方があり(『青森市沿革史』1909年)、一定の支持を得ていたようです。しかし、設置当初は「御仮屋」という名称ではないことは明らかなので、この論法は成り立たないように思います。
ただ、19世紀の初めに編さんされたとみられる記録には、青森屋敷の住人を「城代」と表記しています。しかし公的記録「弘前藩庁日記」にはそうした表現は出てきていません。ここの謎解きはひとつの課題になりそうです。

そして課題といえばもうひとつあります。「屋敷」から「御仮屋」に名称が変更となったのはいつかということです。この名称変更は、蝦夷島の軍事的緊張が緩和されたこと意味すると思うので、青森市の歴史においてひとつのエポックになるはずです。
目下、屋敷の用例は貞享4年(1687)まで、元禄8年(1695)に御仮屋の用例を確認しています。この8年間のどこかで名称が変わっているのですが…調査に手が回っていません。

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  • 登録日 : 2024/03/15
  • 掲載日 : 2024/03/15
  • 変更日 : 2024/03/15
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